松山市東洋整骨院・綜合整体「整体・カイロ・整骨のトリプルパワー」 の日記
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なぜ、私が、家業の整体院を継いだのか、
2017.08.13
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初めて、お話します、この整体というものを始めたのか、私が、物心のついた、頃、おばあちゃん子の私は、おばあちゃんの。腰をもんだり脚の裏を踏んだりしてたそうです。おじいさんや、お父さんの治療のまねをして、肩をもんだり,足の裏を踏んだりして、その度、おばあちゃんから、お小遣いを貰っていたみたいです、三つ子の魂井、百までと、よく言ったものすね、、だから、小学生、高学年位から、跡継ぎになるのは、当たり前と意識していました、家族もみんな,そんな、感じでしたが、いざ大阪にある、明治東洋医学院を卒業し、国家試験に合格し柔道整復師の免許を貰い、父の後を継いだ、22歳の時に、一人で独立し、当時は、整体と言う言葉なんか何も無く、我が家は、おじいさんが昭和25年につけた、「渡部指圧]でしていましたが、私は、指圧の免許では、無いので、いろいろ、考えて、体の歪みを直しているのだか,整える、体ということで[渡部整体]にしましたその時が昭和52年くらいですかね。、その時に、どこにも、愛媛県では、整体をなのる所が無く、、自慢ではないけど、愛媛県では最初に整体と言う言葉を使用しました。その当時私は、まだ,年も若く、患者さんは、当時、来るのは、おじいさん、おばあさんや、おっさん、おばさん[失礼しました」達
で。仕事的には地味な仕事で、あまり楽しくないのでした、また、技術も、たいした事も無いくせに、態度は、でかい、そんな、若者でした、また、22歳なので、若く見られ様と、考えたのは、口ひげを生やし、ふけて、見られるように、わざと、ふけ顔を作りました、けれど、徐々に、仕事が、天職と、思えるように、なるまでに、15年くらいかかりました、現在は、患者さんの、状態が、悪ければ、悪いほど、心より。何とか、してあげたいと思える、ようになり、毎日の仕事に燃えています。2017/8/13